インド星占いと数秘術と西洋星占い
占い、は嫌いか好きかと言われれば、大好きです。
タロットカードも好きだし、エンジェルカードも好き。
ただのめり込みたくない、洗脳されたくない、振り回されたくない、です。
占いを鏡にたとえて、自分の回りに、色んな鏡を置いたと想定し、
もちろん、そのなかには社会、学校、友達、家族、という対という意識に関しての鏡もあります。占いだけでないことがポイントです。もしカウンセラーにかかっているならそれも一つの鏡。
一つの鏡のグループとして、数々の占いで自分を占ってみると、私という人間ができあがる。
このもう一人の人間が、今の自分と重ね、
あっているとか、こんなところもあるのか、とか例えば前世などの所では
なんとも面白い自分が出てくる。
ここ一年そんな占う人たちのなかで、とっても気になる人がいます。
筋トレ、の石井ゆかり殿です。
語り口が軽そうなのに、実は結構丁寧に見ていらっいます。
私は山羊座で、今年は幸運の木製ジュピターが鎮座していただいているのですが、
彼女のような精妙なホロスコープの中にスピリチャルな直感をもって、
それぞれの星座を読んでいるのが、今の時代にすごいハートを感じるのは
どうも私だけではないようです。
しばらく離れれません。いつか会って、占っていただきたい人です。
一般的に20才過ぎたころから、社会ともまれる流れになり、それまで、ただの塊の
物であった一人の人間が、いろんな状況にぶつかり、そがれ、むき出され、自分という人間を
自分の中に見つけ、と同時に過去も出来上がってくる。
私の場合はドロップアウトしているので、高校一年のときから、ローリングストーンが始まったのですが、私の後ろは過去のいろんな、自分のしでかしたことが、ゴロゴロ転がっているわけです。
波乱万丈といえばそうだし、ただわがままだったのかもしれないし、
肩書きがないから、せめてお金の塔でも作らなきゃと思うのですが、欲がないし、
まだまだ苦労しそうです。
そんな状況の中で、ふっと引いたカード、特に思いがけないタイミングのときに他人に切ってもらったカードがズバリ当たることがある。
そのカードに導かれ、ここに来ている、そんな神様の手の上にのった感覚です。
人生も中盤に差し掛かり、確かにスピリチャルな直感がわたしにはあるようです。
説明できないのですが.....
占いにのめりこまない訳は、それより以前にドロップアウトしたときがわたしの人生の
全ての軸がそこを基点にして、探し物をさがしている人生だから、
哲学的なわたしの塊の中の中枢です。
2008年になり、よく見えてきたことの一つが
アーユルヴェーダという言葉自体が手垢にまみれ、利用されやすい道具になりつつある、
神聖な伝統的な技術より、言葉が先行しすぎです。
シッダハは身の回りの薬草からはじまります。
知っているハーブからでよいのです。
よくインドで学ばれるのですね、といわれるのですが、
誰も教えてくれません。
まるで、すし屋さんに丁稚に入ったと同じようです。
Dr.のほうが、私から吸収しているので、わたしは自分の感じないハーブはわたしのお客様から
吸収するしかないのです。
シッダハまだまだ入り口です。
タロットカードも好きだし、エンジェルカードも好き。
ただのめり込みたくない、洗脳されたくない、振り回されたくない、です。
占いを鏡にたとえて、自分の回りに、色んな鏡を置いたと想定し、
もちろん、そのなかには社会、学校、友達、家族、という対という意識に関しての鏡もあります。占いだけでないことがポイントです。もしカウンセラーにかかっているならそれも一つの鏡。
一つの鏡のグループとして、数々の占いで自分を占ってみると、私という人間ができあがる。
このもう一人の人間が、今の自分と重ね、
あっているとか、こんなところもあるのか、とか例えば前世などの所では
なんとも面白い自分が出てくる。
ここ一年そんな占う人たちのなかで、とっても気になる人がいます。
筋トレ、の石井ゆかり殿です。
語り口が軽そうなのに、実は結構丁寧に見ていらっいます。
私は山羊座で、今年は幸運の木製ジュピターが鎮座していただいているのですが、
彼女のような精妙なホロスコープの中にスピリチャルな直感をもって、
それぞれの星座を読んでいるのが、今の時代にすごいハートを感じるのは
どうも私だけではないようです。
しばらく離れれません。いつか会って、占っていただきたい人です。
一般的に20才過ぎたころから、社会ともまれる流れになり、それまで、ただの塊の
物であった一人の人間が、いろんな状況にぶつかり、そがれ、むき出され、自分という人間を
自分の中に見つけ、と同時に過去も出来上がってくる。
私の場合はドロップアウトしているので、高校一年のときから、ローリングストーンが始まったのですが、私の後ろは過去のいろんな、自分のしでかしたことが、ゴロゴロ転がっているわけです。
波乱万丈といえばそうだし、ただわがままだったのかもしれないし、
肩書きがないから、せめてお金の塔でも作らなきゃと思うのですが、欲がないし、
まだまだ苦労しそうです。
そんな状況の中で、ふっと引いたカード、特に思いがけないタイミングのときに他人に切ってもらったカードがズバリ当たることがある。
そのカードに導かれ、ここに来ている、そんな神様の手の上にのった感覚です。
人生も中盤に差し掛かり、確かにスピリチャルな直感がわたしにはあるようです。
説明できないのですが.....
占いにのめりこまない訳は、それより以前にドロップアウトしたときがわたしの人生の
全ての軸がそこを基点にして、探し物をさがしている人生だから、
哲学的なわたしの塊の中の中枢です。
2008年になり、よく見えてきたことの一つが
アーユルヴェーダという言葉自体が手垢にまみれ、利用されやすい道具になりつつある、
神聖な伝統的な技術より、言葉が先行しすぎです。
シッダハは身の回りの薬草からはじまります。
知っているハーブからでよいのです。
よくインドで学ばれるのですね、といわれるのですが、
誰も教えてくれません。
まるで、すし屋さんに丁稚に入ったと同じようです。
Dr.のほうが、私から吸収しているので、わたしは自分の感じないハーブはわたしのお客様から
吸収するしかないのです。
シッダハまだまだ入り口です。
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