アーユルヴェーダという言葉の外側と内側
たぶん、私は言葉について、とても大切に、選んで、
意味を噛み砕いた上で使う傾向のある人間だと思います。
だから今でもアーユルヴェーダとは?という???の答えが出てこないのです。
アーユルヴェーダとは?
という質問の投げかけに、命を科学する、という直訳、またはそれに近いものの満足できないのです。
リズムを持ち正しい生活を送る、という答えに近いとも感じます。簡単なことですが、出来てない日常のリズムです。
頭の中ではアーユルヴェーダとはなんだろう?どんなものだろう?と好奇心は一杯で、
ただ、経験は、切実に求めても
ある程度の時間と縁とタイミングと行動の接点であるので、
頭ばかりが答えが、出てこないストレスが発火した導火線のようになって、経験したい体をイライラして引きずっているのです。
愛という言葉に置きかえて、表現してみると
赤ちゃんのとき、愛なんて言葉は、文字の前に与えられるもので、
思春期になって、恋し、または愛して、裏切られて、結婚して、なんてころころローリングストーンになって、さて愛は? の答をなにがしら、肉がついてきて、
やっと死ぬ前に、苔むして、それぞれの愛の言葉を、結果として得てゆく、
それが本当の言葉、言霊であると思うのです。
けれど、巷に飛び交うのは、イメージばかり膨らんだ言葉のバルーンばかりで、
ストイックな私には受け入れがたいのです。
ヘナでデトックス、というキャッチコピーも理解できずにオウムのように唱えて、
アーユルヴェーダとは、ドーシャがアンバランスになりアーマ(毒)がたまり、それはカッパ、ヴァータ、ピッタ、の体質などなど、
なにかすべてを難しく、かた結びのようになり、
そんなものではないと思うのです。
もっと簡単でシンプルなもの、自然発生的なもの、
先に愛のイメージやイルージョンに漬かりすぎて、枠をはめてしまって、混乱させている。
そんな感じがします。
きちんとしたリズムのある生活の中に、生きて、神様から降りてくるタイミングを待つ、器のような
道具だと、感じるこのごろです。
だから頭は導火線のようだけど、忍耐強く、日々の仕事をこなしながら、経験を待っている、私です。
意味を噛み砕いた上で使う傾向のある人間だと思います。
だから今でもアーユルヴェーダとは?という???の答えが出てこないのです。
アーユルヴェーダとは?
という質問の投げかけに、命を科学する、という直訳、またはそれに近いものの満足できないのです。
リズムを持ち正しい生活を送る、という答えに近いとも感じます。簡単なことですが、出来てない日常のリズムです。
頭の中ではアーユルヴェーダとはなんだろう?どんなものだろう?と好奇心は一杯で、
ただ、経験は、切実に求めても
ある程度の時間と縁とタイミングと行動の接点であるので、
頭ばかりが答えが、出てこないストレスが発火した導火線のようになって、経験したい体をイライラして引きずっているのです。
愛という言葉に置きかえて、表現してみると
赤ちゃんのとき、愛なんて言葉は、文字の前に与えられるもので、
思春期になって、恋し、または愛して、裏切られて、結婚して、なんてころころローリングストーンになって、さて愛は? の答をなにがしら、肉がついてきて、
やっと死ぬ前に、苔むして、それぞれの愛の言葉を、結果として得てゆく、
それが本当の言葉、言霊であると思うのです。
けれど、巷に飛び交うのは、イメージばかり膨らんだ言葉のバルーンばかりで、
ストイックな私には受け入れがたいのです。
ヘナでデトックス、というキャッチコピーも理解できずにオウムのように唱えて、
アーユルヴェーダとは、ドーシャがアンバランスになりアーマ(毒)がたまり、それはカッパ、ヴァータ、ピッタ、の体質などなど、
なにかすべてを難しく、かた結びのようになり、
そんなものではないと思うのです。
もっと簡単でシンプルなもの、自然発生的なもの、
先に愛のイメージやイルージョンに漬かりすぎて、枠をはめてしまって、混乱させている。
そんな感じがします。
きちんとしたリズムのある生活の中に、生きて、神様から降りてくるタイミングを待つ、器のような
道具だと、感じるこのごろです。
だから頭は導火線のようだけど、忍耐強く、日々の仕事をこなしながら、経験を待っている、私です。
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